シニアリーマンリアル起業日記  「志事」を創業しよう! 

人生100年時代。「志事(しごと)」を色々な形で生み出し、歳を重ねるごとに働くことを通じてかっこよくなる大人をどんどん増やすんだい。という野望を持ったシニアリーマンの起業奮闘ぶりを、リアルに綴ります。これからのキャリア開発を考えるサラリーマン皆様に、ロールモデルならぬ抱腹絶倒のネタを捨て身?で供給するブログです。  *志事創業社のHPはこちら http://age100.tokyo/aboutus/

たまには書評も 「日本の経営にだって学ぶこと沢山ですよね」

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企業(事業)経営に興味関心のある方は、欧米系の横文字情報を学ぶケースが多いですよね。MBAを例にするまでもなく、「マネジメント」を学ぶには海外事例からというわけです。

 

確かに、日本の大企業のやり方では、どうも立ち行かなくなっている事例が目立ちます。制度疲労やら機能障害など、そこかしこで起こっている様は目を覆いたくなるぐらいです。

云十年前、昭和の時代に企業人デビューした年代の方(私です!)には、自分たちのやり方、経験がこれからの時代に全く通用しませんぜと言われているようでもあり、ちょっと辛いかなぁ。特に凋落著しいと言われているメーカーの皆様方。

でも、日本の企業だって、ちゃんと「イノベーション」も起せるし「バックキャスティング」で事業創造だってできるんです…という話をすっきりまとめていただいている本がこちら。

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マシュマロチャレンジの教え 「PDCA回してますか?」 

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皆さんはマシュマロチャレンジをご存知ですか? 冷たい氷水を頭からかぶるバケツチャレンジとは違いますので念のため(^^)

先日、ある講座で教えていただいた話がとても印象的でしたので、こちらで披露させてください。

用意するのはスパゲティ(ゆで上げ前のパスタ)、スコッチテープ、紐、そしてマシュマロ。この材料を使って、18分の時間で、いかに高い「塔」をたて、てっぺんにマシュマロを載せるかをチームで競うゲームです。

 

チームビルディングや、PDACサイクルなどを体感する手法として、ビジネススクールを始め、様々な「教育」場面で採用されているそうです。

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大人の起業家は、言葉を丁寧に扱って差をつける

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世の中、「失言」の嵐です。

 

閣僚の問題発言は相当にひどい話。

何せ、言葉のプロであるはずの政治家が「私の真意が伝わらなかった」との釈明。自分の政治理念を口頭で伝えるのが生命線の職業なのだから、これは仕事放棄の発言かと。内容如何に関わらず、この釈明コメントだけでアウトだと思います。

 

一方で、聴き手の言葉に対する「不寛容」も相当に広がっているのも事実。内輪の会議でのコメントですら、あっという間に世間に拡散してしまう世の中。個人のブログだっていつでも「炎上」の可能性を秘めています。偽ニュース(Fake News)や脱真実(Post Truth)といった現象は、耳に心地よい言葉しか受け入れられない世相を示しているとも言えそうです。

 

発信する側からは覚悟も自覚も無い言葉が乱発。聴く側は自分の聴きたい言葉しか受け入れない。言葉の持つ本来的な力が、どんどん失われているのではないでしょうか。

 

 

で、こうした世の中だからこそ、言葉を丁寧に扱う事ができれば、凄く他と差がつくのではないかと思ったわけです。

 例えば、挨拶。おはよう! と爽やかに言うだけでも随分と「良い人」ってキャラクターでしょうが、おはようございます! とさらに添えるだけで、品の良さも伝わる。  

 例えば、プレゼンテーションの機会。掴みをどうするか、TEDなどでプレゼンのノウハウを勉強するもの良いのですが、自分が伝えたい言葉をたった一つ探し出すことができれば、「面白かったね」以上を相手に伝えることができるのではないでしょうか。

 これぐらいの工夫でも、日々重ねていくことで、ものすごく大きな差になるのではないかと思うのです。

 

 

言霊(ことだま)を持ち出すと、「おっと精神世界の話ね」と警戒されちゃうかもしれませんが、ここまでライトになっちゃってる以上、ドーンと一言に魂をのせていく気構えが逆に重要だろうと。ここぞという時に適切な言葉を使える大人の起業家。めっちゃ恰好良いじゃないですか。

おやじギャグもそのトレーニングの一歩ですね…多分。

シニア起業家はビジネスにお金を使おう!

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先日、たまたま偶然に『バブルの頃』を20代の方に話をする機会が続きました。

 

「明け方、都心から多摩の自宅にタクシーで帰り、そのまま運転手さんを待たせてシャワーだけ浴び、会社に出社し直した」だの、「美味いラーメンが食べたくなったので、飛行機乗って札幌まで日帰りしてきた」だの、それはもうバカみたいな話を並べたので、おとぎ話に目を輝かせるように聞き入ってくれました。実際はあきれて、何も言えなくなっただけかもしれませんが…

 

『バブル現役世代』の、“また出たか話”と笑ってくださって良いのですが、昔を思い出しているうちに気づいたことがあります。それは、お金を使うという感覚の衰えについてです。

 

 

あまりにもおバカなお金の使い方からの反動か、『バブル』以降、お金を使わない能力(≒態度,姿勢)が、ここず~っと私たち日本人の基本価値となっているような気がします。「コスト削減」とか「緊縮財政」とか「無駄を省く」とか。「効率化」なんていうのもこの類の価値観の一つかもしれません。

 将来に備えてまずお金を貯める。容赦なきコストカッターこそが良き経営者、リソースを集めるのにお金を使わないことが立派なマネジメント、節約に勝る経営無し…てな勢いです。何せ、ちょいと「無駄使い」に見えようものなら、世間から総攻撃。お金使うことのリスクが、失う以上にとんでもなく大きくなっている感じです。

 

 

バブルの頃の笑い話の一つに、

「どうせお前ら頭も体力もないんだから、せめてお金でも使えよ!」

と上司に怒られるTV番組の企画マン達というのがありましたが、お金を使ってどうビジネスにつなげるか、切磋琢磨をしていた時代でもあったと言えます。これ、今になって考えると貴重な体験かもしれません。

 

「お金を使う」こと、意外に今のビジネスシーンで選択肢から外されている事が多いのではないでしょうか。「コストをかけずに…」という枕詞をつけて、ちょっとしたチャレンジを先延ばしにしていないでしょうか? 節約は本来、使うべきところにお金を回すための手段。使わないお金を貯めこむことが目的ではないはず。ここぞというところにお金をかけることこそ、ビジネスの要諦であったはず。そこを見極めることこそ、経営者の力だったのでは。お金をかけて、自分達では持ちえないカードを持つ。M&Aだってそういった視点の経営手法の一つですよね。買い物上手になるには、場数だって踏まないといけません。

『バブル世代』は、確かにおバカなお金も沢山使ったと思いますが、だからこそ、お金の面白い使い方、活かし方を知っているはず。ここ、もう一度磨いてみたら、ビジネスがもっと楽しくなるのでは?

 

 

 え? もともと使えるお金がない? うーん、じゃぁ使い方を指南して一緒に楽しむということで…世の中、そんなに甘くないか(^^;) 

高尾山で、五感を呼び覚まされる心地よさを感じてきました♪

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先週末の金曜日、「タマベン大人の遠足」と題して、ミュシュラン三ツ星の山、地元八王子が誇る高尾山に行ってきました♪ 


 メンバーはおじさん五人組みですが、山菜取りの達人や、アルピニストと呼びたい山登り愛好家、高尾山の全てを知り尽くしているのではという御仁などなど、初心者の私一人が”強者(つわもの)”に紛れ込んでしまった感じです。

 お恥ずかしながら、私はアウトドアは大の苦手。キャンプとか山登りとかのお誘いは「ごめんなさい」をしていることがほとんどなのです。今回は「自分の住んでいる多摩地域の魅力を体感せずして、タマベンのメンバーか!」と突っ込まれるのを勝手に心配して、参加を決めたしだい。なんともおっとり刀ですよね(^^;)

 

 

集合場所の高尾山口駅前は、平日の朝だというのに、待ち合わせの人でごったがえし。秋の紅葉に負けず劣らず、桜の季節の人気がわかります。それでも「週末に比べたら、かなり空いている」との強者みなさまのコメントでした。 

 「じゃぁ今日は、6号路で登りますか」

と、何やら専門用語?を使われてチンプンカンプンなるものの、ケーブルカー乗り場の桜に見惚れた後、いよいよ「登頂」開始です。ご存知の方も多いと思いますが、高尾山は標高599m。「登頂」だなんて大袈裟に過ぎる表現なのですが、私一人、勝手に緊張感みなぎっている様子をここから想像していただければと(爆)

 

 

ところが(当たり前ですが)、私が不必要にテンション高いのを気にもせず、”強者”の皆さまが、道中てんでお気楽で面白いんです。雑談に興じて歩いていると思いきや、突然「これは食えるんだよね」と道端の山菜?を指さしたり、「お! この鳴き声はタゴガエルだな」と耳を急にすましたり。なんか色々な感覚を使って「山歩き」を楽しんでいるご様子。

「え? どこどこ?」「うん? そんなの聞こえました?」と都度、お尋ねする私との違いがありあり。さすがの余裕です。

 それでも不思議なもので、1時間もしてくると、「あれ、あんなところにちょいと変わった花が」とか「せせらぎがいい感じで聴こえる」とか、初心者の私でも気づくようになってきます。五感が研ぎ澄まされてくると言えば、これまた大袈裟ですが、普段あまり使っていない「センサー」が動き出す感じです。これが何とも自然と会話しているようで心地よい。山頂に到着後のお約束のランチも、最高に美味しくいただきました。空気もいいせいだな、きっと。

 

 

なんて、すっかり「山好き」風なことを偉そうにコメントしていたら、

「いやぁ、こんな程度で好きになってもらえるなんて、”洗脳”も簡単でいいわぁ~」

との突っ込みいただきました。いや、だから私の感受性が高まったからだって。

 

 

何はともあれ、頭が固くなったり、考えが煮詰まったりした時、必要なのは自分の持っている様々なセンサーを動かすことかもしれないなぁと思った次第。「高尾山」で学んだメンタルトレーニングということですかね。

 あ、ちなみに麓に降りてきての蕎麦もめっちゃ美味かった。こちらは「麺足る」ですね~っ。

 

…そして翌日、使っていないところ動かしたせいで…筋肉痛になりましたとさ(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自分で決めるを楽しむために」 最新のTVゲームでの気づき!

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インベーダーゲームで熱くなり、初代ファミコンドラクエ(嗚呼、懐かしの復活の呪文!)でRPGにハマった年代としては、最近のゲームの「進化」たるや想像を超えるものがあります。

 

先日、息子が某N社の「スイッチ」をバイト代はたいて購入してきました。その昔、奥様の逆鱗に触れ、某S社の初代プレイステーションを最後に個人プレーは完全に断っていたのですが、この歳ならまさかもうハマることはあるまいと、「お父さんにもやらせてよ」とちょいとお試し…のつもりだったのですが、結構来ました~!

 

 

某『Zの伝説』というRPG(ですよね?)ソフト。これが凄い。昔のRPGってシナリオに沿ってストーリーをたどっていくしかできなかったのですが、今やプレイヤーが自分の意志でゲームの世界のどこでも自由に旅するなんてことが当たり前に。

 


…って、驚いていたら「お父さん、オープンワールドゲームなんて、結構前から出ているし、そんなに珍しいってことないんじゃない」と息子からの解説。

ちなみに、オープンワールドゲームとは “フィールドやプレイヤーの行動に制限がない/少ないゲーム” のことで、フィールド上の見えているところへはどこまでも行けるし、向き合う「謎」や解く順番なども、プレイヤーが自身で判断できるゲームだそうです。

どうです、ハマりそうじゃないですか(^^;)

 

 

ところがなのです。自分で何でも決めてよいとなると、これが意外にも苦しい。何せ広大な世界で、無目的にウロウロしていると、敵?と思わしき相手にボコボコにされちゃって、ゲームオーバーなんてことがよく起きます。そんな時、思うわけです。「俺は一体何のためにこの世界に居るんだぁ~!」と。

勿論、ゲームのオープニングで、「この世界を悪の手から解放してください」的なビッグなビジョンは示されるのですが、さてどこから手をつけたら良いものかと、途方に暮れる場面が多いんですね。

 

 

これって、人生まさにそのものだなぁと。特にシニア起業した身には、染みてくる話。ビジョンを掲げて「プレイヤー」になったものの、具体的にどこを訪ねていくのかで右往左往したり、実力伴わないうちに、突然「中ボス」級のプロジェクトに挑んで、ゲームオーバー並のダメージ受けたり。

 

 

良くしたもので、そんなちょっと情けないプレイヤーのために、某『Zの伝説』では、ミニチャレンジなるイベントが多数用意されています。「鶏が逃げちゃったんで捕まえてきて欲しい」とか「たいまつに火をつけて欲しい」とか。ミニチャレンジをしているうちにゲーム進行のために必要なコントローラ操作や、ビッグビジョン達成に向けた中期目標が分かってくる仕組みです。

 

 

ここで気づいたんですよね、今更ながら。オープンワールドでは小さなチャレンジを続けることが大事なんだと。Visionに向けた道は、小さい一歩を確実に歩める力をつけることで進んでいけるものなんだと。

「他人から与えられたような”こんまい話”は、俺の大志の邪魔になるだけだぜ~」という台詞は、100年早いと。(ここ某『Zの伝説』の背景ストーリーにちょっとかかってますw) よし! これで「自分で決めることを楽しむために」、攻略だぁ~♪

 

 

「ゲームの中でミニチャレンジしている暇があったら、早く現実世界でまともな修行しなさいよ!」と、また逆鱗に触れそうな気もしますが…。やっぱり、ハマってる?(^^;)

好き嫌いは中身よりスタイルで決まる?

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この歳(50代後半ですよ!w)になってくると、自分の好き嫌いがはっきりしてきていて、例えば対人関係でも「あぁ、この人とはうまくいきそうだ」とか「いやぁ、この方とはご一緒したくない」なんてことを、さくっと思ってしまったりします。

 

組織のトップに行くほどイエスマンを置きたがる…なんていう事例も、こんな「加齢」による価値観の硬直性にある、といった言説もうなずけますね。

 

耳に痛いことを言ってくれる人がどれだけ周りに居るかは、自己を振り返る大事な評価基準の一つ。特に立場的に偉くなってくる(あるいは思われるようになる)人ほど、注意が必要です。

 

でも、実は人に対する好き嫌い、特にコミュニケーションの快、不快の本質って、話の中身(コンテンツ/内容)より、スタイル(言いかた、立居振舞い)によって決まってくるのではないかなと。

 

「もっとこうした方が良いと思いますよ」と「こうしないとダメじゃないですか」と、同じ「こう」でも全然受け手側としての自分の印象変わりますよね。

 

私は個人的にはマウンティング(自分の優位性を表すために相手に対して示す行為)のスタイルを感じてしまうと、内容如何に関わらず、ムカッときてしまうタイプ。勿論、自分自身が少なからずやってきた行為ですから、より腹が立っちゃうんでしょうね。

 

人にはそれぞれ、好むコミュニケーションスタイルがあるし、TPOによっても変わってくるもの。スタイルが気になり、惜しいインプットを無視したり拒絶したりしてチャンスを逃すケースも起きてくる。コンテンツそのものは変わらないのに。

 

シニア起業して、色々な人と協働することが多くなり、好き嫌いのキャパシティが増えてもよさそうなものでしたが、実は自分の好むスタイルの方とばかりとお付き合いしていたかもしれません。苦手な人ともちゃんと時間とらないと…。

もっとも相手がこちらをどう思ってるかは、全くの別問題。「スタイルもコンテンツもどうしようもないなぁ」なんて、思われないよう精進するのが先決ですね。